教育という言葉からイメージするのはどのようなことでしょうか?
最近では「教育」という言葉の持つ意味をネガティブに捉え、「学育」に価値を置き、「学育」を広めようとする向きもあるようです。私は「学育」そのものを否定するわけではなく、とても大切なことだと思っています。ただ、「学育」という子ども一人一人が自ら学んでいく力を育むためにもまず初めに「教育」ありき、と考えています。「学育」という言葉が一人歩きをすることによって、「教育」そのものを否定する傾向が助長されるのではないかと危惧しています。
私自身は「教育とは何か」を探究する専門分野である教育学を専攻しました。教員養成を目的とする教育学科ではなく文学部哲学科の教育学専修という、教育の本質について学ぶ学科でした。子供にどう接したら良いかわからず、教員にはなりたくないけれど、教育そのものには非常に関心があった私にとっては、まさに打ってつけの専攻でした。
大学では、ルソーの「エミール」やペスタロッチ、フレーベル、スウェーデンの比較教育、ピアジェの発達段階に応じた教育、子どもの権利条約などを学びました。大学の勉強以外にも教育に関する様々な本を読んだので、どこでどう学んだのかさえ記憶も定かではないのですが、雑誌や本、講演会等で教育について語られるのを見聞きする中で、私の中でイメージしている「教育」と世間一般に認識されている「教育」という言葉の含蓄する意味合いが随分異なっているのではないかと、もやもやとした違和感を禁じ得ませんでした。
私が「教育」という言葉で思い描くイメージは「教え込む」という意味合いのteachingでもなければ「訓練する」というtrainingでもない「education」です。もし教育という言葉にteachingやtrainingということを思い浮かべるとすれば、それはeducationの訳語が誤解を生んだのかもしれないとさえ想像しています。
いつの日か「教育」の真の意味、「教育」の原義について綴りたいと思いながら、不確かなことを書くわけにもいかず、そうこうしているうちにかなり年月が経ってしまいました。コロナ禍のため実家に帰省できず、実家に眠っているはずの該当する本を見つけられる機会が得られなかったという事情もあります。
そうした中、元駐日英国大使、現在オックスフォード大学ウルフソン・カレッジ学長のティム・ヒッチンズ氏が「education」という言葉の由来について述べられている冊子に出逢い、心が躍りました。まさに私の探し求めていたことが書かれていたのです。
英語のeducationという言葉の語源はラテン語で〝e-〟は「外へ」、〝ducation〟は「何かを引っ張る」ことを意味します。ですからeducationという言葉は、その人の中からその人自身が持っている潜在的な才能を〝pull out〟、つまり「引き出す」という意味を持ちます。これは日本語の「教育」が知識を「押し込む」という意味を含むのと対照的です。
有名な彫刻家のミケランジェロの言葉を借りますと、彼は大理石を削って彫刻をするのではなく、大理石の中にある「何か」を探すために彫刻をするんだという言葉が、まさに英国の教育を表していると思います。
(出所:「駐日英国大使からウルフソンカレッジ学長へ」「教育は誰のものか そして、なぜ学ぶのか」一般社団法人 言の葉協会)
教育とはその人の持っている潜在能力を見出し、それを伸ばすための働きかけに他なりません。そのためにその能力を伸ばせる教師やメンターの存在、教材や設備などのリソースが必要となります。
家庭ですべてを揃えるわけにはいきません。そうした環境を提供するために学校が必要なのだと思います。オンラインで学べる教材が増えたとはいえ、多くの人は何をどのような順番で学べば良いか選択するのが難しいのが実情です。
親が得意なことは子供に教えることができますが、そうでないことは教えようとしてもまず初めの一歩で躓きます。親が教えられないからこそ習い事でも勉強でも先生に習うわけです。
吉田兼好の『徒然草』第52段の「仁和寺にある法師」に
「少しのことにも先達はあらまほしき事なり。」という一節があります。高校の古典で習ったと思うのですが、私はこの言葉がとても印象に残っています。
現代日本語訳としては「どんな些細なことでも指導者は欲しいものである。」という意味ですが、どんなことをするにも教師、指導者は必要なのだと思います。
自分の能力を引き出してくれる人に巡り合えた人は幸いです。
子どもにとって人生の最初の教育者は親もしくは養育者です。
その後、人様の力を借りながら色々なことができるようになり、成長していくのだと思います。
その人の持っている潜在能力を引き出し、開花させてくれる「教育」という言葉が私は好きです。Educationという言葉の持つ意味をイメージしながら、子どもに接することを意識したら子育てはもっと楽しめるかもしれません。その子の持っている能力を引き出し、伸ばすのが教育であるとすれば、子育ての時期であれば、子どもが興味を持った、楽しめることができるようサポートすることで親も子もハッピーに過ごせます。
オックスフォード大学のチュートリアルやケンブリッジ大学のスーパーヴィジョンに見られる少人数教育システムは大教室講義と比べて費用も手間もかかりますが、教育を大切にしているからこそこの伝統的な教育スタイルが綿々と維持されているのだと思います。
オックスフォード大学が入学選考で必ずポテンシャルという言葉を使うのは、ポテンシャルのある学生を最高学府で教育することによって、その人の潜在能力を最大限に伸ばす、という教育の本質に関わることなのだと理解しています。
本稿でEducationの訳語となっている「教育」の原義、教育の本質についてお伝えできたなら幸いです。