「インドの魔術師」と言われ、32歳の若さで夭逝した天才数学者ラマヌジャン。先日ラマヌジャンの生涯を描いた映画作品「奇蹟がくれた数式」(原題:The Man Who Knew Infinity)のDVDを観ました。
※ 原作:「無限の天才 新装版 ―夭逝の数学者・ラマヌジャン」(ロバート・カニーゲル著、 田中靖夫 翻訳)
ラマヌジャンはインドの貧しい家庭に育ちながらも数学に驚くべき天賦の才を示し、大学中退後も数式に没入する日々を過ごしていました。既に結婚していたラマヌジャンは仕事を探していましたが、常時数式を書いたノートを携えていました。ある日のこと、ラマヌジャンの驚くべき才能を見抜いた人がいて、彼はラマヌジャンが数学を毎日彼に教えることを条件にその会社の事務員として働けるよう取り計らってくれたのでした。
彼はラマヌジャンの数学上の偉大な発見を世に広めるべく論文を出版する必要性を説き、ラマヌジャンは自分が発見した公式を書いた手紙をイギリスの著名な教授数人に宛てて出したのですが、インドの一事務員に過ぎない学位もないラマヌジャンの手紙を真剣に読んでくれる人はいませんでした。ただ一人ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジの天才数学者G・H・ハーディ教授を除いては。
ハーディ教授はラマヌジャンをケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに招聘しました。自分の研究成果を発表できると期待に胸を膨らませて渡英したラマヌジャンをケンブリッジ大学で待ち受けていたのは苦難の日々でした。トリニティ・カレッジでのたゆまない研究生活。直感により数式が閃き、数式の証明を得意としないラマヌジャンの公式の正当性を周囲に理解してもらうまでには幾多の困難が伴いました。ラマヌジャンがついに数式の証明を成し遂げることができ、王立協会(Royal Society)に迎え入れられたのは、ラマヌジャンのことをアイザック・ニュートンの業績をも凌ぐほどの天才だと見抜き研究を支えたハーディ教授の存在がなければ果たせなかったことです。
舞台の背景は第一次世界大戦の前後、インドは当時イギリスの統治下の時代です。
映画「イミテーションゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」「ビューティフルマインド」等の作品もそうですが、天才であるがゆえの苦悩・試練が尋常耐えられるレベルをはるかに超えていて、やるせない気持ちにさせられます。天才が幸せに生きることはかくも難しいことなのでしょうか。
インドに残した妻を英国に呼び寄せる日を想い描きながら研究に専念したラマヌジャン。病に侵されながら終戦後インドに帰国。約一年後まだ32歳という若さで亡くなったラマヌジャン。短い生涯でしたが、「ベートーヴェンの第10番交響曲の発見と同じ価値」と言われた“ラマヌジャン・ノート”が死後発見され、今では“アインシュタイン並みの天才”と称えられているそうです。
映画 「奇蹟がくれた数式」の予告編
(映画「奇蹟がくれた数式」公式サイトURL: http://kiseki-sushiki.jp)
映画の中で心に深く響いたフレーズをメモしておきたいと思います。
ハーディ教授の相棒リトル・ウッド数学者がラマヌジャンをケンブリッジ大学に迎え入れた時の言葉
「偉大な知性は貧しい出自からも現れる。」(訳:映画字幕より引用)
ハーディ教授がラマヌジャンに「見せたいものがある」と連れていったレン図書館。そこにはニュートンを始め偉大な業績を成し遂げた偉人の書物が並んでいます。
そこでハーディ教授がラマヌジャンの研究ノートを指しながらラマヌジャンに語った言葉
“There are many ways to be honored in life, for us, being elected as a fellow is certainly one, but in my humble opinion to leave a legacy here at Wren after we’re gone is the greatest.”
至言ですね。
自らの死後、自分の研究成果をケンブリッジ大学のレン図書館に遺産として残すことを最高の名誉として日々の研究に邁進したハーディ教授の深淵なる想い。このような崇高なる想いに畏敬の念を抱きつつ、平穏無事に過ごせる日々に感謝しながら生きたいと思います。
〈参考〉
http://kiseki-sushiki.jp/info/?page_id=45
【追記】2018.10.23
ラマヌジャンの数学の論文 Papers of Srinivasa Ramanujanはケンブリッジ大学トリニティ・カレッジのウェブサイトで閲覧できるようです♪